たとえば、食事に行くとメニューを見て食べるものを決めるわけですが、それだって面倒なことです。なので僕は、自分で払うときは一番安い料理を見つけて、それでよさそうだったらそれを、それがイヤだったら2番目に安いものを探すという感じで、機械的に決めています。つまり、選択肢を無意識に減らす生活をしています。

「和をもって貴しとなす」という言葉がありますが、和が成立したものを明文化したのが法律です。だから、日本ではすべての問題を解決した上で、つまり「和」が先でその後に法律を定めます。

楽しさや幸せを、「お金を使うことで感じる人」は、一生幸せになれません。

「まずい」というのが、何をもってまずいのか、実は、人それぞれみんな違う意味で言っています。その中には、味がないものを「まずい」と言う人がいます。でも、それは味が薄いだけで、別にまずくはないと言えます。それとは逆に、塩が多すぎたりして、強い味がまずいと言う人もいます。

 辛いものがまずいと言うのも、「それは『辛い』だよね」と僕は思っていて、厳密には「この味付けをこう思う」という判断であって、「これはしょっぱいから好きじゃないな」とか、「これは辛すぎる」とか、「これは味が薄いな」と言い出すと、「じゃあ『まずい味』ってどんな味?」となって、実は存在しなくなります。

よく人がやっている考え方に、「時給1000円換算」というものがあります。「これを1万円で買うってことは、10時間働かないといけないのか」といった考え方です。

金銭感覚を保つためには、「買う瞬間に判断する」ということを徹底することです。

食欲の話に関連させて、身につけておいたほうがいいスキルが2つあるので最後に紹介しておきます。ひとつは、「料理がうまくなること」と、もうひとつは、「なんでも食べられるようになること」です。どっちも大事ということではなく、どちらか一方だけでいいと思います。

学歴が低いからダメということではなく、その背景として受験勉強をやってくれていることは、ある程度、その人の担保になります。偏差値がそこそこの学校に行っている人であれば、少なくとも参考書を理解する能力を持っている証明にはなるわけです。そういう人は、「理不尽耐性」も高いですしね。

昔のように、先進国と発展途上国の差がとても開いていると、先進国だけが莫大な利益をあげて、社会保障にたくさんのお金を使うことが可能だったと思うのですが、たぶんそんなことは無理になってきます。その点からいっても、「いかにお金をかけずに病気にならないように生活をするか」ということがこれからのキーワードになってきますし、それは個人レベルの話だけでなく、日本が破綻する可能性にも備えなくてはいけないと僕は思います。

幸せ=お金ではないというひろゆきの生き方が面白く書かれた良書です。皆さまにもぜひご一読をオススメします。


大和書房           700円+税

深く勉強するというのは、ノリが悪くなることである。

自由になる、つまり環境の外部=可能性の空間を開くには、「道具的な言語使用」のウェイトを減らし、言葉を言葉として、不透明なものとして意識する「玩具的な言語使用」にウェイトを移す必要がある。

 言語をそれ自体として操作する自分、それこそが、脱環境的な、脱洗脳的な、もう一人の自分である。言語への「わざとの意識」をもつことで、そのような第二の自分を生成する。

地に足が着いていない浮いた言語をおもちゃのように使う、それが自由の条件である。

言語は、現実から切り離された可能性の世界を展開できるのです。その力を意識する。

わざとらしく言語に関わる。要するに、言葉遊び的になる。

このことを僕は、「言語偏重」になる、と言い表したい。自分のあり方が、言語それ自体の次元に偏っていて、言語が行為を上回っている人になるということです。それは言い換えれば、言葉遊び的な態度で言語に関わるという意識をつねにもつことなのです。

深く勉強するとは、言語偏重の人になることである。

言語偏重の人、それは、その場にいながらもどこかに浮いているような、ノリの悪い語りをする人である。あえてノリが悪い語りの方へ。あるいは、場違いな言葉遊びの方へ。

勉強はそのように、言語偏重の方向へ行くことで深まるのです。

環境のノリから自由になるという本書の課題は、浅いレベルだけでなく、深いレベルにまでおよび、何かを決めるときの「自分なりに」の根源にある「自分に固有の無意味」へと向かっていく、という課題になる。

人間を条件づけている言語の問題をフランス現代思想の観点から読み解いた良書である。ぜひ皆さまにもご一読をオススメする次第であります。





文春文庫          780円+税

 人の心の奥には「魂」といわれているものがあり、そのさらに奥深く、核心ともいうべき部分には、「真我」というものがある。それはもっとも純粋で、もっとも美しい心の領域です。

 禅の修行をしていると、その段階が深まるにつれ、えもいわれぬ精妙な意識の状態に到達するといいます。それは静かで純粋な至福の境地というもので、すばらしい喜びに満ちている。それこそが真我であろうと思われます。

ふだん私たちはその外側に、「知性」「感性」「本能」といった心を幾重にもまとってしまっていますが、だれもがその奥底に、この上なく純粋で美しい真我をもっている。利他の心、やさしく美しい思いとは、この真我の働きによるものです。

そしてその真我とは、万物を万物たらしめている「宇宙の心」とまったく同じものである、と私は考えています。

仏教では森羅万象に仏が宿っていると説きます。古来あらゆる宗教が語ってきたように、この世のあらゆるものは、宇宙の心というべき“たった一つの存在”が、それぞれに形を変えて顕現したものだといえる。

つまり、人の心のもっとも深いところにある「真我」にまで到達すると、万物の根源ともいえる宇宙の心と同じところに行き着く。

したがって、そこから発した「利他の心」は現実を変える力を有し、おのずとラッキーな出来事を呼び込み、成功へと導かれるのです。

宇宙の心とは、宇宙を形づくってきた「大いなる意志」といいかえてもよいでしょう。

宇宙には、すべてのものを幸せに導き、とどまることなく成長発展させようとする意志が働いています。

心のあり方を説いた稲盛哲学の真骨頂ともいうべき一冊です。ぜひ皆さまにもご一読をオススメします。


サンマーク出版         1700円+税

 「真面目に一生懸命働く」ということを、私たちはいつもできているでしょうか。自ら一生懸命働くこともせずに、身に降りかかる災難を人のせいにしたり、社会のせいにしたりしている人がまま見受けられるように思えてしようがありません。自分の境遇を変えることはできません。自らの外にばかり不幸の要因を求める限り、心のうちは永遠に満たされることはないはずです。一方、恵まれない境遇であったとしても、勤勉に働くことさえできれば、幸せをつかむことができます。

二宮尊徳の例に見るように「労働が人格をつくる」のです。

真面目に一生懸命に働くという行為こそが、人間を立派にしていきます。苦労する経験を避けていった人で、立派な人間性をつくり上げた人などいないはずです。若いときから一生懸命に働き、苦労を重ね、自らを鍛え、磨いていった人こそが、人間性を高め、素晴らしい人生を生きることができるのです。

 今はどのような境遇であれ、人知れず、身を粉にして、懸命に働き続けることが大切です。そのように苦労を重ねることが、立派な人間性をつくり、豊かな人生をつくることになることをぜひ信じていただきたいと思います。

稲盛哲学の仕事観が詳しく書かれた良書です。ぜひ皆さまにもご一読をオススメします。


大和書房       1700円+税

 気の進まない著者アンソニー・ホロヴィッツが、元刑事ダニエル・ホーソンに彼らの契約が終わったと告げるとき、アンソニーは他のより差し迫ったことを考えていた。

アンソニーの新しい劇マインドゲームがロンドンのヴォードヴィル・シアターで上演されようとしている。しかし、上演の初夜、サンデー・タイムズの批評家、ハリエット・スロスビーが彼の劇に容赦ない批評を書く。

翌朝、ハリエット・スロスビーは、アンソニーの指紋が付いた装飾のある短剣で心臓を刺され、死んでいることが確認される。

アンソニーは、スロスビーの殺人の廉で逮捕され刑務所に放り込まれる。

孤立無援でますますやけくそのアンソニーは1人の男だけが自分を助けることができると気付く。

しかし、ホーソンはアンソニーの要請に応えるだろうか?

後半のホーソンが真犯人を解明していく場面は手に汗握ります。皆さんにも是非読んでいただきたい第一級のサスペンス・スリラーです。



東京ブックランド   2250円+税

 ①パラレルワールドは、周波数帯である。

・それはゼロポイントフィールドに畳み込まれている。

②「観測」や「意図」を変えると、周波数帯が変わる。

・私たちは雲のような存在で、周波数は常に変化している。

・そして周波数が変わると、その周波数帯(パラレルワールド)に移動する。

③自分がいる周r波数帯では、その世界に見合った現象化が起こる。

・観測や意図が、その世界にそったものに変わるため。

・その世界には同じ周波数の人、物、出来事があり、それが引き寄せられるため。

④今だけでなく、過去や未来も変わる。

・素粒子には、時間や空間がなく、観測に応じて現れるため。

「平和な意識の人たちが増えることで、平和な周波数のフォトン(光子)だらけになり、地球も素粒子でモワモワ~だから、平和に揺れていく。その周波数の結果の『物質化現象』が平和だから、平和な意識だらけの人を増やそう!」と著者は願っている。

量子力学の観点から「生き方」を説いた良書です。皆さんも是非ご一読を!


サンマーク出版            1400円+税

 反応せずに、まず理解するーこれが、悩みを解決する秘訣です。特に「心の状態を見る」という習慣を持つことで、日頃のストレスや怒り、落ち込みや心配などの「ムダな反応」をおさえることが可能になります。では、「心の状態を見る」とはどういうことか。ここではその方法を三つ紹介します。①言葉で確認する。②感覚を意識するーいずれも、ムダな反応を静める絶大な効果を持っているので、ぜひ実践してください。

①ココロの状態を言葉で確認する

例えば、長時間テレビやインターネットで遊んでしまったときは、「アタマが混乱していて落ち着かない」「心がざわついている」と客観的に確認します。特に「目をつむって」確認してみると、心が落ち着きます。 仕事中でも、家族といるときも、「今、自分の心は、どんな状態だろう?」と意識するようにします。「疲れを感じているな」「気力が落ちているな」「イライラしているな」「考えがまとまらないな」というように、客観的に確認します。

「言葉で確認する」ことを、仏教の世界では「ラベリング」(ラベル貼り)と呼ぶことがあります。心の状態にぺたりと「名前」を貼って、客観的に理解してしまうのです。

②カラダの感覚を意識する

「カラダの感覚を見つめる」ように心がけていると、「感覚を意識する」「よく感じ取る」ことの意味が、わかってくると思います。

呼吸しながら「お腹のふくらみ、縮み」や、「鼻先を出入りする空気の感覚」を感じ取るようにします。

 こうして、日頃動かしているカラダの「感覚」を、よく意識しながら感じ取るようにするのです。

これらの二つの方法ー①言葉で確認する、②感覚を意識するーは、ブッダが生きていた時代には、「サティ」(sati)と呼ばれていました。禅の世界では「念じる」、瞑想の世界では「マインドフルネス」と呼ばれています。

心の状態をよく見ること、意識すること。そのことで、ムダな反応は止まり、心は静まり、深い落ち着きと集中が可能になります。

③アタマの中を分類する

これは、心の状態をいくつかの種類に分けて理解する方法です。「言葉で確認する」のと似ていますが、もう少しおおざっぱに、観念的に理解するところに特徴があります。基本は、⑴貪欲、⑵怒り、⑶妄想、の三つに分類することです。

著者は、「快を見つける」というのは、仕事や作業を「積極的に楽しむ」ことだ、と言っています。「快の反応」とは、「面白いぞ」「頑張っているぞ」と、ポジティブな反応をすることなのです。

この本は仏教の観点から、「つい反応してしまう心」の「苦しみ」から離れる方法を、懇切丁寧に解説した良書だといえます。オススメの一冊です。皆さまも是非読んでみてください。


KADOKAWA                                     1300円+税

 現役僧侶による空海の名言の解説。空海は、地ー固さ・安定性、水ー湿度・下降性、火ー温度・上昇性、風ー動く・流動性、空ー広がり・空間性、識ーすべてを統一しようとする力・生命力、これらの構成要素とそのあり方の教え(六大無碍にして常に瑜伽なり)に出合うことで、世の中のあり方についての疑問を晴らした。

(この身は)必ず四恩の徳に資ってこの五陰の体を保つ。 『教王経開題』

私たちには体があります。これを色と言います。まず目でトーストを見ます。目で像を受け取るのが受です。その情報が視神経を通して脳に送られるのが想。これでようやく、トーストが見えたと認識しています。これを行。そして、過去の知識から、食べられる、バターを塗るとよりおいしい、飲み物はコーヒーがいい、などと判断します。これが識です。色と受、想、行、識の五つが、変化しながら、仮にまとまっている(五陰)のが、”今この瞬間の自分”なのです。

いわゆる四恩とは、一には父母、ニには国王、三には衆生、四つには三宝なり。 『教王経開題』

四恩とは、一に父母の恩、ニには国王(国)の恩、三には生きとし生けるもの(衆生)の恩、四つには仏法僧の三宝の恩です。

それ生は我が願いにあらざれども、無明の父、我を生ず。死は我が欲するにあらざれども、因業の鬼、我を殺す。   『教王経開題』

仏教では、自分のご都合どおりにならないことを「苦」と定義しています。なるほど、私たちが苦しいと感じるのは、ことごとく「自分のご都合どおり」になっていない時です。その代表格が「生まれ、老い、病気になり、死ぬこと」の四つ。四苦の最後の死という苦が起きるのはなぜか・・・・・・と昔のお坊さんたちは「なぜ、なぜ」を十二回繰り返しました。それは生まれたから。なぜ生まれたか、性の営み(愛)があったから。そのようにして到達した、根源的な理由は「無明=(真実の世界を)わかっていない」

からでした。これを十二因縁と言います。

生は楽にあらず、衆苦のあつまるところなり。 『教王経開題

苦を減らそうと思うのなら、「ご都合」を少なくしていけばいいのです。これを「小欲知足」といいます。欲を小さくして足ることを知れば、「もうこれで充分だ」と思えるので苦がなくなります。

偉大な僧侶、空海の名言と分かりやすい仏教思想の解説が付された本書は、仏教ファンのみならず、この世での「生き方」を模索している方々にも是非とも読んでもらいたい一冊であります。


宝島文庫      定価 618円

 仏教思想を中心に据えて「生き方」の人生哲学を説いた指南書。著者によれば、労働には、欲望に打ち勝ち、心を磨き、人間性をつくっていくという効果がある。働くことで得られる喜びは格別であり、遊びや趣味ではけっして代替できない。まじめに一生懸命仕事に打ち込み、つらさや苦しさを超えて何かを成し遂げたときの達成感。それに代わる喜びはこの世にはない。日々の労働の中にこそ、心を磨き、高め、少しでも悟りに近づく道が存在している。「悟りは日々の労働の中にある」のだ。

 これからの日本と日本人が生き方の根に据えるべき哲学をひと言でいうなら、「足るを知る」ということであろう。また、その知足の心がもたらす、感謝と謙虚さをベースにした、他人を思いやる利他の行いであろう。

因果が応報するには時間がかかる。このことを心して、結果を焦らず、日ごろから倦まず弛まず、地道に善行を積み重ねるよう努めることが大切。

因果応報の法則が成り立つのは、それが自然の摂理に沿ったものであるから。長いスパンで見たら、善因が悪果を招いたり、悪因が善果を呼ぶような因果のねじれを起こらず、すべて善因善果、悪因悪果と順説でつながるのは、それがそのまま天の理や意に沿ったものであるから。

宇宙には、一瞬たりとも停滞することなく、すべてのものを生成発展させてやまない意志と力、もしくは気やエネルギーの流れのようなものが存在する。しかもそれは「善意」によるものであり、人間をはじめとする生物から無生物に至るまで、いっさいを「善き方向」へ向かわせようとしている。よいことをすれば、よいことが起こる因果応報の法則が成立するのも、また、素粒子が素粒子のままとどまらず、原子、分子、高分子と結合をくり返し、いまもなお進化をやめないでいるのも、その流れや力に促されてのことなのだ。

森羅万象あらゆるものを成長発展させよう、生きとし生けるものを善の方向へ導こう―それこそが宇宙の意志であり、いいかえれば、宇宙にはそのような「愛」「慈悲の心」が満ちている。

宇宙には、物質をも生命体のように見せてしまう、すべてを「生かそう」とする、静かで強靭な意識、思い、愛、力、エネルギー・・・・・・そういうものが、目には見えないが確実に「ある」と、私には感じられる。

人間の心は多重構造をしていて、同心円状にいくつかの層をなしているものと考えられる。

すなわち外側から、①知性―後天的に身につけた知識や論理②感性―五感や感情などの精神作用をつかさどる心③本能―肉体を維持するための欲望など④魂―真我が現世での経験や業をまとったもの⑤真我―心の中心にあって核をなすもの。真・善・美に満ちている

ここで肝心なのは、心の中心部をなす「真我」と「魂」。この二つはどう違うのか。真我はヨガなどでもいわれているが、文字どおり中核をなす心の芯、真の意識のこと。仏教でいう「智慧」のことで、ここに至る、つまり悟りを開くと、宇宙を貫くすべての真理がわかる。仏や神の思いの投影、宇宙の意志のあらわれといってもよい。仏教では「山川草木悉皆成仏」、すなわちありとあらゆるものには仏性が宿っているという考え方をするが、真我とはその仏性そのもの、宇宙を宇宙たらしめている叡智そのものである。すべての物事の本質、万物の真理を意味してもいる。それが私たちの心のまん中にも存在している。

真我は仏性そのものであるがゆえにきわめて美しい。それは愛と誠と調和に満ち、真・善・美を兼ね備えている。人間は真・善・美にあこがれずにはいられない存在だが、それは、心のまん中にその真・善・美そのものを備えた、すばらしい真我があるからにほかならない。あらかじめ心の中に備えられているものであるから、私たちはそれを求めてやまない。

働くことの大切さ、他人を思いやることの大切さ、つねに感謝の気持ちを忘れないでいることの大切さなどを説いたタメになる人生哲学の一冊である。是非、皆さまもご一読を!


サンマーク出版            1700円+税 

 イェール大学の心理学の教授、アンは、人の判断と推論を向上させるための情報豊かなガイド本でデビューを果たす。認知心理学に頼りながら、アンは思考におけるありふれたエラーとバイアスについて調査し、それらとの闘い方について考える。著者は、1960年代初頭、“確証バイアス“を体系づけるに至った心理学者、ピーターC.ウェイソンの実験の特徴を述べ、あるいは人の信念を支持する情報だけに専心する傾向について説明する。アンは読者に多数の可能な説明を考えるよう励まし、ある人の仮定を反証するやもしれぬ証拠について考えるよう励ます。アンは事例に基づく証拠が紛らわしいという点を警告する。そして、人々はしばしば少量のおそらくは代表していないデータ(例えば、応募者の毎日の行いを反映してないかもしれない一対一の面接に基づいて管理者は雇用決定をする)に基づいて一般化しすぎていると説明する。




東京ブックランド        1950円+税

 言わずと知れた気鋭の政治学者が著した歴史的ベストセラー。本書では漱石とウェーバーの思想を比較しながら「苦悩する人間」の「悩む力」について考察している。精神医学者のV・E・フランクルによれば、「Homo patiens(苦悩する人間)の、価値の序列は、Homo faber(道具人)のそれより高い」。

 著者によれば、自我とは、平たく言えば、「私とは何か」を自分自身に問う意識で、「自己意識」と言っても良い。この自我とは「自己チュー」とは異なり、自我に悩むことは「他者」とのつながり方の問題にも関わってくる。

漱石が著した『心』という小説の中で、「平生はみんな善人なんです、・・・・・・それが、いざという間際に、急に悪人に変わるんだから恐ろしいのです」という先生の発言に対して、「私」が「私の伺いたいのは、いざという間際という意味なんです」と聞き返す場面があるのだが、このときの先生の答えが、「金さ君。金を見ると、どんな君子でもすぐ悪人になるのさ」というふうに漱石は、お金を人間関係を壊す根源のように描いている。このように漱石は金持ちに好意的ではなく、新興ブルジョワジーを嫌悪していた。

一方のウェーバーは父親のおかげで何不自由なく育ち、一流の教育を受けることができた。彼の学者としての成功も父親のおかげである。しかし、彼は時代を批評する者として、父親の成りあがり根性を心から疎ましく思っていた。

漱石は、お金が持つ「危うさ」を察知していて、ウェーバーと同じように深刻に見ていた。お金を生み出すためだけの資本主義の問題点は、マネーの冒険者たちだけでなく、「お金にかかわって生きているすべての人」の人間性をねじ曲げてしまう可能性がある。だからこそ、漱石はしつこいほど「お金をめぐる人間の姿」を書いたのではないか、と著者は問題提起している。

しかし、人間はお金を稼いでいかないと生きていけない。すると、結局は漱石たちと同じように、できる範囲でお金を稼ぎ、できる範囲でお金を使い、心を失わないためのモラルを探りつつ、資本の論理の上を滑っていくしかない―と著者は述べている。

時の流れの中ですべての価値は「変化」するが、「お金」だけは、「不変」の価値を持った一種の記号として、存在しつづける。侮りがたきはお金である、ということなのだ。

著者は、第六章 何のために「働く」のかで、「人が働く」のは、「他者からのアテンション(ねぎらいのまなざしを向けること)(承認のまなざし)」を得ること、「他者へのアテンション」だと述べている。要は、「働く」ことで社会へ繋がっていくということである。

著者は、第七章 「変わらぬ愛」はあるかで、結局、愛というのは、ある個人とある個人の間に展開される「絶えざるパフォーマンスの所産」の謂なのであって、どちらかが何かの働きかけをし、相手がそれに応えようとする限り、そのときそのときで愛は成立し、その意欲がある限り、愛は続いていく、と述べている。

そして、著者は、終章 老いて「最強」たれで、「老人力」とは「攪乱する力」である、と述べている。老いてこそ人は、生産や効率性、若さや有用性を中心とするこれまでの社会を変えていかなければならない。現在の高齢社会で「死を引き受ける力」を持っている老人は、恐いもの知らずである。老いてこそ人は精力的になるのである。

19世紀末から20世紀初頭を生きた二人の偉大な思想家の考えを参考にしながら、著者の人間洞察に優れた考えの表明された興味深い一冊である。


集英社新書      680円+税

 人はなぜ退屈するのだろうか?人は何もすることがないとき退屈する。本書はハイデッガーの退屈論を援用しながら、『暇と退屈の倫理学』について考えた哲学書である。ハイデッガーによれば、退屈はだれもが知っていると同時に、だれもよく知らない現象だということである。退屈は苦しいものと言える。退屈だから人は気晴らしを求める。しかし、その気晴らしも退屈とない交ぜになっているのである。

人は習慣の生き物である。習慣を創造するとは、周囲の環境を一定のシグナルの体系に変換することである。つまり、生物は、ある一定の状態にとどまることを快と受け止める。また、習慣はダイナミックなものでもある。

退屈とは何か?人はサリエンシー「突出物」「目立つこと」を避けて生きるのだから、サリエンシーのない、安定した、安静な状態、つまり、何も起こらない状態は理想的な生活環境に思える。ところが、実際にそうした状態が訪れると、何もやることがないので覚醒の度合いが低下して脳の中のDMN(デフォルト・モード・ネットワーク)が起動する。すると、確かに、周囲にはサリエンシーはないものの、心の中に沈殿していた痛む記憶(記憶は全て痛む)がサリエンシーとして内側から人を苦しめることになる。これこそが、退屈の正体と言える。

哲学は長らく「人間本性human nature」から考えてきた。しかし、著者は哲学は「人間の運命human fate」から考える必要があると唱える。

ルソーが描く自然人は傷を負っていない。記憶ももっていない。だからこそ誰とも一緒にいたいなどとは思わない。しかし、記憶をもつ、すなわち傷を負っている具体的な人間は誰かと一緒にいたいと願う。人間の本質と人間の運命を区別しなければ、いったいどちらが本当の人間の欲望なのかという不毛な議論が生まれてしまう。そして、運命と本性を区別すれば、それを避けることができる。人間を巡る哲学上の学説の対立はしばしば起こるが、もしかすると、それらの中には、運命と本性の区別によって解決できるものも少なくないかもしれない。この意味で、運命の概念には一定の有効性があるように思われるのである。

往年の哲学者たちの論考を縦横無尽に横断して本質的な人間論を述べた良質な哲学の入門書だと言えよう。



新潮文庫      800円+税