姜尚中著 『悩む力』を読む

 言わずと知れた気鋭の政治学者が著した歴史的ベストセラー。本書では漱石とウェーバーの思想を比較しながら「苦悩する人間」の「悩む力」について考察している。精神医学者のV・E・フランクルによれば、「Homo patiens(苦悩する人間)の、価値の序列は、Homo faber(道具人)のそれより高い」。

 著者によれば、自我とは、平たく言えば、「私とは何か」を自分自身に問う意識で、「自己意識」と言っても良い。この自我とは「自己チュー」とは異なり、自我に悩むことは「他者」とのつながり方の問題にも関わってくる。

漱石が著した『心』という小説の中で、「平生はみんな善人なんです、・・・・・・それが、いざという間際に、急に悪人に変わるんだから恐ろしいのです」という先生の発言に対して、「私」が「私の伺いたいのは、いざという間際という意味なんです」と聞き返す場面があるのだが、このときの先生の答えが、「金さ君。金を見ると、どんな君子でもすぐ悪人になるのさ」というふうに漱石は、お金を人間関係を壊す根源のように描いている。このように漱石は金持ちに好意的ではなく、新興ブルジョワジーを嫌悪していた。

一方のウェーバーは父親のおかげで何不自由なく育ち、一流の教育を受けることができた。彼の学者としての成功も父親のおかげである。しかし、彼は時代を批評する者として、父親の成りあがり根性を心から疎ましく思っていた。

漱石は、お金が持つ「危うさ」を察知していて、ウェーバーと同じように深刻に見ていた。お金を生み出すためだけの資本主義の問題点は、マネーの冒険者たちだけでなく、「お金にかかわって生きているすべての人」の人間性をねじ曲げてしまう可能性がある。だからこそ、漱石はしつこいほど「お金をめぐる人間の姿」を書いたのではないか、と著者は問題提起している。

しかし、人間はお金を稼いでいかないと生きていけない。すると、結局は漱石たちと同じように、できる範囲でお金を稼ぎ、できる範囲でお金を使い、心を失わないためのモラルを探りつつ、資本の論理の上を滑っていくしかない―と著者は述べている。

時の流れの中ですべての価値は「変化」するが、「お金」だけは、「不変」の価値を持った一種の記号として、存在しつづける。侮りがたきはお金である、ということなのだ。

著者は、第六章 何のために「働く」のかで、「人が働く」のは、「他者からのアテンション(ねぎらいのまなざしを向けること)(承認のまなざし)」を得ること、「他者へのアテンション」だと述べている。要は、「働く」ことで社会へ繋がっていくということである。

著者は、第七章 「変わらぬ愛」はあるかで、結局、愛というのは、ある個人とある個人の間に展開される「絶えざるパフォーマンスの所産」の謂なのであって、どちらかが何かの働きかけをし、相手がそれに応えようとする限り、そのときそのときで愛は成立し、その意欲がある限り、愛は続いていく、と述べている。

そして、著者は、終章 老いて「最強」たれで、「老人力」とは「攪乱する力」である、と述べている。老いてこそ人は、生産や効率性、若さや有用性を中心とするこれまでの社会を変えていかなければならない。現在の高齢社会で「死を引き受ける力」を持っている老人は、恐いもの知らずである。老いてこそ人は精力的になるのである。

19世紀末から20世紀初頭を生きた二人の偉大な思想家の考えを参考にしながら、著者の人間洞察に優れた考えの表明された興味深い一冊である。


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KAZUMAの読書日記

冒険、スリラー、ジョギング、エッセーなどなど、気の向くまま、多ジャンルの読書を続けてきましたが、オススメできそうな本を備忘録風にご紹介いたします。

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