深く勉強するというのは、ノリが悪くなることである。
自由になる、つまり環境の外部=可能性の空間を開くには、「道具的な言語使用」のウェイトを減らし、言葉を言葉として、不透明なものとして意識する「玩具的な言語使用」にウェイトを移す必要がある。
言語をそれ自体として操作する自分、それこそが、脱環境的な、脱洗脳的な、もう一人の自分である。言語への「わざとの意識」をもつことで、そのような第二の自分を生成する。
地に足が着いていない浮いた言語をおもちゃのように使う、それが自由の条件である。
言語は、現実から切り離された可能性の世界を展開できるのです。その力を意識する。
わざとらしく言語に関わる。要するに、言葉遊び的になる。
このことを僕は、「言語偏重」になる、と言い表したい。自分のあり方が、言語それ自体の次元に偏っていて、言語が行為を上回っている人になるということです。それは言い換えれば、言葉遊び的な態度で言語に関わるという意識をつねにもつことなのです。
深く勉強するとは、言語偏重の人になることである。
言語偏重の人、それは、その場にいながらもどこかに浮いているような、ノリの悪い語りをする人である。あえてノリが悪い語りの方へ。あるいは、場違いな言葉遊びの方へ。
勉強はそのように、言語偏重の方向へ行くことで深まるのです。
環境のノリから自由になるという本書の課題は、浅いレベルだけでなく、深いレベルにまでおよび、何かを決めるときの「自分なりに」の根源にある「自分に固有の無意味」へと向かっていく、という課題になる。
人間を条件づけている言語の問題をフランス現代思想の観点から読み解いた良書である。ぜひ皆さまにもご一読をオススメする次第であります。
文春文庫 780円+税
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