現役住職が書いた「孤独な時間」の過ごし方を紹介した本。著者によれば、「人間にとって孤独とは当たり前で自然なこと」。
「お墓参りのすすめ」では、著者は、両親や祖父母の存在はもちろん身近なものです。それよりも昔の先祖のことは知ることはできません。どんな人だったのか。何をして生きてきたのか。過去帳などにはある程度書かれてはいますが、おそらくその人となりまでは分かりません。しかし、そんな会ったこともないご先祖の血を、私たちは確かに引いているのです。そのことに思いを馳せながら、静かにお墓の前に立ってください。静かに手を合わせて、いま抱えている悩みを吐露してみてください。『私はどうすればいいですか?」と。お墓の前でご先祖様と対話をする。これが自問自答ということなのです。と、言っています。
「縁は平等に流れている」では、著者は、「和顔愛語」という禅語を紹介しています。いつもやわらかな笑顔で、そして心がこもった穏やかな言葉づかいをすること。お互いにそれを心がけていれば、そこには温かな関係が生まれてくるものです。もしもお互いの感情がぶつかり合ったとしても、この言葉を思い出すことによって自然と気持ちは和らいでくるのではないでしょうか。と、述べています。
「寂しさの正体」では、著者は、では、どうすれば、襲ってくる寂しさから逃れることができるのでしょうか。その答えの一つは、実は身体を動かすことなのです。日々の中にはやるべきことがたくさんあります。そこに心を集中させて、一生懸命に取り組んでいくこと、それが寂しさから逃れることのできる一番の方法です。少なくとも何かに夢中になって身体を動かしている時に、寂しさという感情が襲ってくることはないでしょう。と、述べています。
「錯覚なのかもしれない」では、ところが、友達が少ないことが幸せではないと決めつけている人がいます。それは思い込みに過ぎないのではないでしょうか。要するに孤独を錯覚しているのです。孤独のスパイラルに陥りそうになった時には、ともかく視点を変えてみることです。私たちの目に見ていること、それらはけっして真実ではありません。物事の見方は実にたくさんあります。一方的な角度から見るのではなく、視点を変えて見ることです。と、述べています。
「勝ち負けにこだわらない」では、著者は、「切磋琢磨」という言葉を引き合いに出して、私たちは勝ち負けを決めるために競い合っているのではない。互いを高めていくために競い合っている。と、述べている。
「人はどうして死を恐れるのか」では、著者は、今日という日はたった一度しか訪れません。今日という日が過ぎてしまえば、もう二度とやってくることはありません。であるからこそ、その一日に集中して、大切に生きること。それを教えてくれる禅語として、「日々是好日」を紹介しています。
禅の視点から書かれた読み応えのある人生哲学書と言えるでしょう。
PHP文庫 740円+税
0コメント