この本で著者は、「本当の自分」幻想がはらむ問題を考察している。著者が言うには「本当の自分」なんてない。人間は決して西洋キリスト教的な世界観が提示する唯一無二の「(分割不可能な)個人 individual」などではない。著者は、人間は相手次第で、自然と様々な自分になる、複数の「(分割可能な)分人 dividual」である、と定義している。著者によると、分人には3種類ある。まず、社会的な分人。これは、「不特定多数の人とコミュニケーション可能な、汎用性の高い分人」である。これは、例えば、マンションのエレベーターで見知らぬ住民と乗り合わせたとする。その時、「暑いですね、今日は。」「ホントに。イヤになりますね。」などのほとんど内容のない、コミュニケーションのためのコミュニケーションなどである。
それから、特定のグループ(カテゴリー)に向けた分人である。これは、例えば、学校や会社、サークルといったグループ向けの分人である。社会的な分人が、より狭いカテゴリーに限定されたものが、グループ向けの分人である。
それから、「社会的な分人」と「グループ向けの分人」を経て、最終的に生まれるのが、「特定の相手に向けた分人」である。これは、いわば、人と人との1対1の関係のことである。
私という存在は、ポツンと孤独に存在しているわけではない。つねに他者との相互作用の中にある。というより、他者との相互作用の中にしかない。
分人が幾つあっても、顔だけは一つしかない。従って、分人を統合するものは顔である。
「恋」「エロス」(プラトンが論じている)とは、一時的に燃え上がって、何としても相手と結ばれたいと願う、激しく強い感情である。それに対して、「愛」「フィリア」(アリストテレスが詳しく説いている)は、関係の継続性が重視される概念である。「恋」と「愛」である人間の恋愛感情は、シーソーのように、どっちかが高まればどっちかが低下する、ということを繰り返し続けるのである。
ネガティヴな分人が生じたとしたら、半分は相手のせいである。裏返せば、ポジティヴな分人もまた、他者のお陰なのである。私たちの人格そのものが半分は他者のお陰なのである。
個人 individualは,他者との関係においては、分割可能 dividualである。逆説的に聞こえるかもしれないが、それが、論理学より発展した、この単語の意味である。そして、分人 dividualは、他者との関係においては、むしろ分割不可能 individualである。もっと強い言葉で言い換えよう。個人は、人間を個々に分断する単位であり、個人主義はその思想である。分人は、人間を個々に分断させない単位であり、分人主義はその思想である。それは、個人を人種や国籍といった、より大きな単位によって粗雑に統合するのとは逆に、単位を小さくすることによって、きめ細やかな繋がりを発見させる思想である。
保育園などで、まだ生まれて間もない子供たちを見ていて思うのだが、この無邪気な子供たちの誰かが、将来、殺人者になるとして、それは本当にこの子たちの自己責任なのだろうか?子供たちは、社会の中で様々な分人化を経験して、大人になる。そうすると、犯罪の責任の半分は、やはり社会の側にある。
殺人は、被害者の生命はもちろんのこと、すべての分人を奪いさってしまうことになる。あなたの親しい知人が何者かに殺されたとするなら、あなたが影響を与え、あなた向けに生じていたその人の分人も殺されたということだ。
一人を殺すことは、その人の周辺、さらにその周辺へと無限に繋がる分人同士のリンクを破壊するのことになる。一人を殺すことは、その周辺にいる人間までをも悲しませるのである。殺人を犯した者は、罰せられてしかるべきである。
講談社現代新書 840円+税
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